ジョン・アーノルド

英国の時計師(1736ー1799)



ジョン・アーノルド、コーンウエルにて誕生。19歳でオランダへ旅立ち、ドイツ語を習得しロンドンへ戻りました。当時最小のハーフクォーターリピーター時計を製作し、ハノーバー朝ジョージ三世へ進呈、流暢にドイツ語を操れるアーノルドは宮廷で大活躍しました。

ジョン・アーノルドは当時最も革新的な時計職人の一人として知られ、デタント脱進機、バイメタルテンプやヘリカルバランスの特許を取得。アーノルドはまた当時重要な事柄において中心的な役割を担いました。海上での経度を計測する開発競争においてイギリス経度委員会よりいくつもの賞を授与されました。

  • 1755

    時計職人としての技術を磨く見習い期間を終えた後、19歳でイギリスを出てオランダに渡りました。2年後に帰国した時にはドイツ語に堪能となっており、ジョージ三世の宮廷で大いに活躍しました。そして、20代半ばには、ロンドンのストランド街で評判の時計職人としての地位を確立していました。

  • 1762

    伝えられているところによると、アーノルドは、二度打ち時計の修理に訪れたウィリアム・マクガイアという人物に出会いました。マクガイアは後にアーノルドにローンを援助し、アーノルドはロンドンのストランド、デブルーコートで時計工房を開きました。

  • 1764

    ジョン・アーノルドは、ハーフ・クォーターリピーターを搭載した指輪を国王ジョージ三世に献上するという機会を得ました。


    1847年、宗教小冊子協会は以下のように記しています:「アーノルドはまた、これまでに知られている中で、最小の2度打ち時計の製作者として名を上げています。それはジョージ三世のために作られ、陛下の誕生日、1764年6月4日に進呈されました。直径はわずか0.6インチ以下の小さい時計にもかかわらず、すべてのパーツが完璧で、1時間、クォーター(15分)、ハーフ・クォーター(7.5分)のリピーター機構を持ち、初のルビーシリンダーが用いられました。[...] 王はこの機械的に巧妙な珍しい一品を大変喜び、500ギニーをアーノルド氏に渡しました。後にロシアの皇帝がアーノルド氏に、この複製に1000ギニーを出すと申し出ましたが、それを彼は断わりました。」

  • 1770

    アーノルドが公式審査のために完成させた最も初期のマリンクロノメーターは、1770年代初頭に作成したシリーズのものでした。アーノルドは経度委員会にわずか60ギニーで生産できると見積りしたクロノメーターを提出し200ポンドを授与されました。これがクロノメーター開発への支援のためにアーノルドが受け取った最初の報酬でした。

  • 1771

    ロバート・ハーランド提督は海軍将校でした。彼は1771年にイーストインディーズ基地の最高司令官に任命され、マダガスカルへの旅にアーノルドが製作した最初のクロノメーターを使用しました。

  • 1772

    1768年から1779年の間に、ジェームズ・クックは野心に満ちた3回の太平洋への航海を率いました。これらの航海は長距離にわたり経度を計測する天文学的と計時方法をテストする機会でした。クックは2度目の航海(1772〜75)でジョン・アーノルドのマリンクロノメーターNo.3を使用し、それを経度委員会が任命した天文学者2名が管理しました。

  • 1773

    デテント脱進機の発明およびその他の重要な設計の改善に続いて、ジョン・アーノルドは最初のポケットクロノメーター(No. 8)を制作しました。

    同じ年、イギリス海軍の探検家で海軍将校であるコンスタンティン・ジョン・フィップスは、アーノルドのクロノメーターを携えて航海し、彼の著書 「北極への航海」:で次のように書いています。「経度委員会は、経度を計測するためにケンダル氏がハリソンの方式に基づいて製作したものとアーノルドが製作した2つのクロノメーターを送ってきました。私はまたアーノルドが作った懐中時計も持っていました。アーノルドの懐中時計は、予想以上に正確な経度を保ったのです。128日間でわずか2 分40秒の狂いしか生じませんでした。」

  • 1775

    ジョン・アーノルドは、テンプと脱進機の間の接触が少ないほどクロノメーターが正確に保たれる可能性が高くなることを知っていました。1772年までに、このことがピボット式デテント脱進機の開発に繋がり、彼は3年後補正バイメタルテンプとヘリカルバランスの特許を取得しました。

  • 1779

    アーノルドのクロノメーターの中で最も有名なのは、おそらく彼の懐中時計No. 1/36でしょう。審査のためグリニッジ王立天文台に送られた時計は、その精度が高く評価されています。


    この成功に続いて、アーノルドはパンフレット「An Account kept during Thirteen Months in the Royal Observatory at Greenwich of the Going of a Pocket Chronometer, made on a new Construction(グリニッジの王立天文台で13ヶ月間記録された新しいポケットクロノメーターの報告)」にて結果を発表しました。


    「クロノメーター」という用語はその後一般的な用語となり、特定の精度基準を満たすテストおよび認定された機械式時計を示すために今日でも使用されています。スイスでは、コントロールオフィシャルスイスデクロノメーター(COSC)により認定された時計のみが「クロノメーター」という用語を使用できます。

  • 1780

    アーノルドの懐中時計No. 2についての報告書の中で、経度委員会は次のように語っています。:「これまでこの時計を使用してきた限り、この時計が以前に製作されたいかなる時計よりも優れているということは、万人が認めなければならない。したがってアーノルド氏には、この分野の機械製造における向上に対して議会から贈られる2つ目の報酬を受け取り、彼の同朋市民全てから拍手と賞賛を受けるべく、さらに時計製造を続けて頂くほかはないように見受けられる。」

  • 1782

    アーノルドの主要な発明の1つは、らせん状ヒゲゼンマイの「ターミナルカーブ」の概念でした。彼は1782年5月にこのデザイン、スプリングデテント脱進機そして遊星歯車で特許を取得しました(英国特許第1382号)。

  • 1796

    ジョン・アーノルドは正式に引退し、熟練の時計職人であった息子のジョン・ロジャー・アーノルド(1769-1843) に会社を託しました。彼の父親の工房で見習いを始めて2年後の1792年、ジョン・アーノルドの友人で偉大なフランスの時計職人アブラアン・ルイ・ブレゲに師事するため彼はパリに向かいました。

  • 1808

    アブラアン-ルイ・ブレゲはアーノルドの懐中時計のひとつにブレゲ初のトゥールビヨン脱進機を搭載しました。ジョン・アーノルドへの崇敬の念を込めて、メインプレートにはフランス語で「Hommage de Breguet à la mémoire révérée d’Arnold, offert à son fils. An 1808. 」(プレゲからアーノルドの思い出に崇敬の念を込めて、彼の息子に捧げます。1808年)と刻まれています。


  • 1820

    アーノルドのクロノメーターNo. 2109は、北極に向かう航海のためウィリアム・エドワード・パリー少将が持参しました。パリーは北極圏のイギリス人探検家であり、おそらく北西航路の長い探求で最も成功した一人です。

  • 1821

    ジョン・ロジャー・アーノルドは、「U」字型テンプの特許を取得しました。彼はまた海軍本部の主要なサプライヤーとなりました。 王立海軍に属する129個のクロノメーターのうち、84個以上がロジャー、彼の父親ジョン・アーノルドまたはアーノルド&サンと署名されています。

  • 1843

    ジョン・ロジャー・アーノルドの死後、アーノルド&サンは19世紀半ばまで、英国の時計職人で著名なチャールズ・フロドシャムによって継続されました。

  • 1857

    アーノルド&デントのNo. 4575クロノメーターは、南アフリカに遠征したデビッド・リビングストン博士が持参しました。

  • 2010

    英国のルーツを持つスイスの時計作り

    1995年のリニューアルのあと、アーノルド&サンは完全に統合されたスイスマニュファクチュールとなり、すべてのムーブメントを自社で開発および生産しています。トゥルービートセコンドなどアーノルドの機械的特徴やデザイン要素を用いてジョン・アーノルドの偉大な作品を現代的に表現しています。